〜湘南の風〜 |
はるなアートクラブへ集う人たちで作るページです。 |
[湘南の風目次]タイトルをピックして下さい。
▼柴山格太郎さんの人生観を聴こう
▼100歳を迎えた柴山格太郎さんのこと
▼たぶろう会創立の頃
▼並木義治先生のこと
▼ベコの父つぁんのこと
▼岸田劉生のお孫さん
101歳を迎えた柴山格太郎さんに質問しました
(柴山さんは2006年104歳で天寿をまっとうされました。合掌)
|
||
100歳を迎えた柴山格太郎のこと
|
||
私は、1964年岡山の田舎から上京してその6月、 さっそく先生のお宅へお伺いし、勉強したいと告げた。 私は7番目の塾生でした。 その後塾生もどんどん増えて、夏には展覧会をすることになりました。 第1回たぶろう展は1965年7月28日〜31日まで横浜東電サービスセンータギャラリーで開きました。 たぶろう会の発足はそれからしばらくして、1966年正月のこと、人体クロッキー勉強の後の新年会席上で先生から話がありました。 それからの10年間はたぶろう会の発展の歴史でもありますが、大変な苦難の時代でもありました。 並木会長の強い意志と各方面への働きかけによって、1976年の第11回展から新装なった東京都美術館に入ることが出来ましたが、たぶろう会にとって最も大きな出来事であり、大変な喜びでした。 |
||
並木義治先生のこと 初めて並木画塾を訪れて先生に会った印象は 塾生はまだ少ないので先生といろんな所へスケッチに出かける。 その後も先生は塾生、たぶろう会会員を連れて良くスケッチ会を企画した。 その後塾生もどんどん増えて、夏には展覧会をすることになった。 第1回たぶろう展は1965年7月28日〜31日まで横浜東電サービスセンータギャラリーで開いた。 |
||
ベコの父つぁんのこと(たぶろう会35周年記念誌から)文;たぶろう美術協会 春名康夫 もうすでに20年の昔になりますが、 2年余りの中国滞在の仕事を終えて、久しぶりに日本に戻って来た時、 札幌で並木会長の展覧会がありました。 久しく展覧会に飢えていた私は並木先生に同行して札幌を訪れた。 ベコの父つぁんに出会ったのはその時が最初だったと思います。 実直そうな、北国北海道の土に染まった年輩の方でした。 それから上野のたぶろう展へ出品され、上京されるたびに親しくお会いしました。 東京は不案内で苦労されている様子でしたので、私の家に泊って頂くことにしました。 その後、毎年のたぶろう展は私の家に滞在されるようになった。 ベコの父つぁんの命名は並木先生である。 本名は藤井豊四郎さんで、藤井紅允の名で出品されていました。 北海道は妹背牛町の農家の方で、ベコの父つぁんの名前のとおり、 いつも牛を題材に出品された。 動きの豊かな、力強い牛の群れが描かれていた。 私も小さい頃から牛と共に生活の農家の出ですので、 牛の絵を描いて、たぶろう展へ出品したこともあります。 ベコの父つぁんも牛が本当に好きなようでした。 ベコの父つぁんの目を通して見る牛達は、みんな友達であり、 我が子のような愛情を注がれているのが分かります。 絵の前に立っていると大きな世界を感じさせてくれました。 その後、ベコの父つぁんは体調を崩され、 たぶろう展を休まれる事が多くなりました。 心配で札幌出張の折り、 妹背牛町まで藤井さんを訪ねました。 藤井さんは幸い快復されており、久しぶりの再開で話しは尽きず、 一晩泊めていただくことになりました。 近くにお住まいの息子さん達も集まって、ごちそうになりました。 その後も再び体調がすぐれないのか、たぶろう展への出品はありませんでした。 しばらくしてから、息子さんからの訃報を受け取りましたが、 たぶろう会にすっぽりと大きな穴があいたような気持ちでした。 でも、ベコの父つぁんの絵は妹背牛町で保存され、 今も町の人達に愛されているようです。 完 |
||
岸田劉生先生の有名な「麗子像」はよくご存知と思います。 事前に並木先生に聞いておりましたが、夏子さんにお会いしてびっくりしたのは、あの「麗子像」にそっくりなのです。 たぶろう展の初期のころは、里見勝蔵先生をはじめ、武者小路実篤先生等ご招待で出品して頂いていました。 最近はあまりお会いする機会はないのですが、ご活躍されているようで、テレビで桜の花に取り組んでいる姿を拝見しました。 |
||
|
||