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〜湘南の風〜

はるなアートクラブへ集う人たちで作るページです。

湘南の風目次タイトルをピックして下さい。
            ▼柴山格太郎さんの人生観を聴こう
            ▼100歳を迎えた柴山格太郎さんのこと
            
たぶろう会創立の頃
            ▼並木義治先生のこと
            ▼ベコの父つぁんのこと
            ▼岸田劉生のお孫さん

101歳を迎えた柴山格太郎さんに質問しました
柴山格太郎さんは今年〔2002年)6月で101歳を迎えられました。
「第2回こうさ展」オープンイベントでのお話しの内容です。

(柴山さんは2006年104歳で天寿をまっとうされました。合掌)

柴山格太郎さんの人生観を聴こう

2001年10月21日はる画廊で 

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【人生100年の思い】
小学校は47人でした 10人が大学へ行った
どうしても90歳くらいでみんな亡くなる
95歳のとき最後の友を亡くした
精力を使いすぎるのかな
長生きは自慢にならないが・・・
熊谷徳平 絵の友人 70歳で亡くなった
一関で遺作展をした
良い仕事をしても早くてはね
芸術家は長生きでなければ
高いことを望みすぎて早く死ぬ
これからの人は食べ物も良いから長生きして
長生きも芸術 技術
ムリしないで 早く死んだらつまらない
昔の芸術家は 粗食 ムリして おしいことだ
健康 長生きして 良いことが出来る
芸術を十二分に達成して欲しい
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【10代20代の頃と今の世の中は?】
その頃 徳島の親戚にやっかいになっていた
一晩家出したことがある
学校へ行きたくて横浜の親戚を訪ねてきた
おじは18から19のころ英国へ留学
井上英語辞典を作った
おじの英語通信学校をついだ
それから 仕事仕事でやってきた

10年前 家内(ちか子さん)とオランダへ旅行した
ちか子と65年間人生を過ごしたことが一番良かった
仲良く暮らしたこと
良い伴侶が見つかった
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【一番古い記憶は?】
法政には仕事が忙しくて行かれなかった
中学から英語が好きだった
30年通信教育をして 昭和30年に止めた
朝鮮 台湾も 教えた 200万人に影響を与えた
世間に何か役に立ったかと言われたら
わからない人に わからせようと それだけ考え
一生懸命やった
やったことが 役に立った
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【一番大切にしているものは?】
自分の先祖をおろそかにしない
蜂須賀小六と先祖が知り合いだった
上杉と武田が喧嘩しても またどちらかへつく
侍の末裔です
阿波は徳川の奥さん 結局は勤浪になった
中学は徳島で 東京へ出て 大学は中退した
いつのまにか100年たってしまった
何でも熱中する方だった
楽な仕事ではなかった 遊ばなかった
65年の結婚生活 これが大事業だった

【おばちゃん(ちか子さん)のこと】
宮城女子 英文科を出て ・・・ 94歳で亡くなった
何も欲しがらない 無欲の人だった
みなさん長生きしてください

【好きな食べ物は?】

何でも食べる
ご飯が一番美味い
おかずが無くても美味しい
パンよりも美味しい
ご飯には味がある
特にこれが好きという ぜいたくは言わなかった
私はぜいたくはしなかった
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【戦争について】
母親は98歳まで生きた
私は24才のときの子
日清戦争が30幾つの時 昭和12年
宋慶齢とアメリカは親しくしていた
それでアメリカと喧嘩になった
100人の社員の食料のために藤沢でイモ畑を買った
その暮れに藤沢に小さな家を建てた
蒋介石 宋美齢 の国民党をアメリカが支持した
昭和16年 日米戦争が始まった
軍部が強かったから
世界一の軍艦をもっていたので
日本人は勤勉で まじめで
軍部が強かったから みんなこわかった
人民としては戦争が怖かった
アメリカと戦争をしたら 1年で負けると言っていた

その後は英語を教えて
日本人は世界中に広がっていった
おじが英学社を作って これに命をかけた
1から始めるつもりで

戦争の事は忘れてやってください
アメリカの考え方 間違っていないと思う
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【最後に好きなことばを教えてください】


<柴山格太郎さんがこのことばを書いて下さいました>


100歳を迎えた柴山格太郎のこと
柴山格太郎さんは今年〔2001年)6月で100歳を迎えられました。
今なおお元気で奥様の絵に囲まれて、
執筆、絵画と活動されています。
昨年の「こうさ展」イベントでのお話しの内容です。

柴山格太郎 99歳 語る

2000年11月5日はる画廊で
文;慶応大学<鹿島剛輝>

「歳月はね、算えるものではないよ。歳月は眺めるものさ」

                   ―「時をめぐる対話」より

以下、歴史の証言者が語る100%の事実に鹿島剛輝の語り口調
が少々で構成されています。
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 あれはそう、第2次世界大戦が始まる前のことでした。
私は英語の通信教育の学校を有線でやっていましてね。
そのときに、トーマスさんと出会ったんです。

トーマスさんはオックスフォードを卒業しておりまして、
そこで発音学とドラマをやっていたんですよ。
発音学というのはドラマとすごい関わりがあるんですよ。

トーマスさんはそれから日本に来られて、
NHKの英語番組に出ていたんですよ。それが、
すごい発音がきれいでねぇ、私はすごいビックリしましたよ。
それで私もちょうど有線で英語の通信教育をしていたもんだから、
頼んで私の学校の副校長になってもらったんです。
彼とは本当に親しい仲でした。

その後、第2次世界大戦が始まってしまいまして、
それでトーマスさんはオーストラリアのタスマニアへ移ってしまったんです。
そこで牧師の職について、そのまま二度と日本に来ることはなかった。
戦争が終ってから何度も誘ったんですけどね。

 トーマスさんが自分の家をそのままにして去ってしまったもんですから、
彼の財産はほとんど日本に残したままだったんです。
だから、国がそれを外国人のものだからと言って、
徴収して競売にかけようとしたんですよ。
それで私はね、これは私の親友のものだから残しておきたいと必死に言ったんです。
それで、学校の倉庫に保管することを条件に三百圓で買い取ったんです。
私がトーマスのために預かっておこう、と。
(三百圓は当時の月収数ヶ月分に匹敵する額)

戦争が終りまして、後日そのことを聞いたトーマスさんがすごく感激してくれて
キャプテン・ソープがトーマスさんの(感謝の)手紙を持ってきたんです。
(キャプテン・ソープは駐日していた米軍の大佐)

トーマスはそのままオーストラリアに安住したんですが、
その死後二人の息子さんか、奥さんかの弁護士が私のところにやって来ました。
私が預かっていたトーマスの不動産について話に来たんです。
弁護士の持ってきた遺言状には、トーマスが私の預かっていた資産は
すべて譲ると書いていました。

トーマスはたくさん本を持っていたので、それでトーマス文庫を設立したんです。
大学や図書館から、その蔵書をもらいたいと申してきたんですが、
どうしても手放したくなくて自分の家に保管しておりました。

 トーマスはねぇ、私は本当に心をこめて世話をしました。
ある日、夕方の麹町でトーマス夫婦がひそひそと話し合いをしていたんです。
夫婦は子供のことで悩んでいたようで相談にきたんですが、
心配しなくても大丈夫と言ってあげたんです。
夫人はフランス人形みたいに綺麗でね。

実はトーマスさんは元イギリスの将校で、
フランスに攻め込んだことがあったんです。
途中フランスのある町できれいな娘さんを見つけてね、
その戦争が終った後、またフランスに行ってその人に求婚して、
結婚したなんて話もあるんですよ。
本当に日本ではよく世話をしました。

今日は話するということで昔の(英語の)教科書を持ってきました。
かなで教えたんですよ。ひらがなで書くなど工夫したり。
中央にいる人達を活字で教育できるように頑張りました。
レコードもつくったんですがそんなにはないので、
ないよりはましだったんですが、熱心な学生達のために教科書をつくって教えました。
正確な人数はわかりませんが名簿から考えると
約250万人に影響を与えたんではないでしょうか。
私は富は残しませんでしたが、
教育の方面でね社会に貢献できたんではないかと思っています。

生徒には台湾人も韓国人もいました、
その頃は日本にもいろいろな人種の人達がいたんですよ。
中学時代に英語の勉強で苦労した経験なども
教える時に役に立ちました。

今日、展覧会を拝見して、驚きました。
日本人は器用なのではないかと。
アメリカ人にはこんなことできないんじゃないかと思いますよ。
芸術は日本の特性なんじゃないですかね。
子供さんがこんなことをやるなんて。
これからはみなさんが創始者のような気持ちで
時代を切り拓いて下さい。

いま外国では日本は興隆からの没落の時期だと見られています。
昔は、世界にたぐいない艦隊を日本はつくったんです。
海外がみんな日本を恐れていたんですよ。
日本は素晴らしい海軍をもっていたんですが、
そのために思いあがって戦争をやってしまった。

これからは戦争はダメなのですから、
文化で対抗しなければいけない。
頑張ってください。私はコンピュータのことを知りませんし、
やりたいとも思わない。
間に合わないから。
アメリカもシリコンバレーですごいことになっていますが、
これからは皆さんがコンピュータをつかって頑張ってください。
 
(省略:朝日新聞)

私は来年か再来年には生きていないかもわかりませんが、
このような席を用意して頂いてありがたく思います。
日本の未来が開けてきたように感じます。

付足し:

中学に行けない人を教えていた。
昔は中学が少なかったもので。
徳島は中学が4つしかなくて、150人しか入れない。
そうすると600人だけということで何千人と子供はいるのに入れなかった。
それで通信学校を始めた。
昔は良い紙がなかったんです。
これが日本人の作った最初の字引き。
これは良く売れました。
昔は外国人がつくっていたんです。
日本人が作った和英もあります。
外務省にいたとき翻訳課にいたので、
そのとき歌舞伎を英訳したものもあります。
(以下、まとまったお話は消えていく)

柴山格太郎 来年の6/20に100歳を迎える




たぶろう会創立の頃

  私は、1964年岡山の田舎から上京してその6月、
藤沢の町へ画材を求めに行った。
かねてから絵を描きたいという希望を抱いていた。
その当時、藤沢では神中デパートの永井不動産で画材を扱っていた。
絵を勉強したいという私の話に店主の永井さんが、つい最近画塾を始められた先生がいらっしゃり、私も勉強していると、紹介して頂いたのが並木義治先生でした。

さっそく先生のお宅へお伺いし、勉強したいと告げた。
いろいろお話を聞いた後先生は紙と鉛筆を用意された。
台所のスプーンとコップ、それに石膏の円柱をテーブルの上に置きデッサンするようにとのことでした。
それが私の入塾試験でした。
その後も多くの塾生が入って来ましたが、入塾試験を見かけたことはありません。

私は7番目の塾生でした。
1年間はみっちりデッサンを勉強しなさい、ということでしたが、結局翌年早々から油絵を並行して勉強することになった。
野外での写生でしたが、早春の光に油絵の具がキラキラと輝いて大変美しかったのを覚えています。
第1号作品は感激で、今でも大切に保管しています。

その後塾生もどんどん増えて、夏には展覧会をすることになりました。
第1回たぶろう展です。
“たぶろう”の名前は並木先生が朝日新聞社に在籍されていた頃作られていた美術会の名前で、当時テレビの人気番組「わたしの秘密」で活躍されていた渡辺紳一郎先生が名づけ親とのことでした。
私達は“たべろう会”とか今日は“しゃべろう会”にしょう等ともじって使っていましたが、れっきとしたフランス語の“Tableau”から取っているのです。
“完成された作品”の意味だと並木先生の説明でした。

第1回たぶろう展は1965年7月28日〜31日まで横浜東電サービスセンータギャラリーで開きました。
展覧会の運営は右も左もわからない塾生を相手に並木先生と奥様は大変な苦労をされたと思います。

たぶろう会の発足はそれからしばらくして、1966年正月のこと、人体クロッキー勉強の後の新年会席上で先生から話がありました。
そして2月27日第1回の総会をおこないました。
記録には参加者23名、会員数48名とあります。
その時の名簿で残っているのは並木会長と会員では私だけになりました。

それからの10年間はたぶろう会の発展の歴史でもありますが、大変な苦難の時代でもありました。
展覧会の会場を探して横浜から銀座、新橋、新宿方面と転々としました。
また、上野で展覧会をしたいという夢で、いろんな美術団体にも公募出品したりしました。
しかし、他展への出品では満足できるものではありませんでした。

並木会長の強い意志と各方面への働きかけによって、1976年の第11回展から新装なった東京都美術館に入ることが出来ましたが、たぶろう会にとって最も大きな出来事であり、大変な喜びでした。
第11回展からがたぶろう会にとって新生の第1回展だったという思いがします。
この間の並木会長と奥様のご苦労は計り知れないものがあります。
そして、現在の35回記念展を迎えることができました。
これからのたぶろう会を更に発展させるのは私達会員みんなの責務だと思います。

並木義治先生のこと

 初めて並木画塾を訪れて先生に会った印象は
「おや?  これが画家というものかなあ、
話を聞くと面白い人だな、
気に入った、この画塾なら一生懸命やれそうだ。」
そんな感想をメモにしている。

先生に対する態度としては生意気なもんだ。

塾生はまだ少ないので先生といろんな所へスケッチに出かける。
最初は江の島へ行った。ヨットハーバーでスケッチ。
15分くらいかかる。先生は5分もかからない。江の島神社でおみくじを引く。
先生は「お人好し」だと出る。
ご機嫌の先生。お土産屋で先生は安物の耳飾りを買う。
これで1枚絵が売れるんだという。
喫茶店の屋上でカレーライスを食べビールを飲みながら外国旅行の話に花が咲く。
朝日新聞社の退職を機に2か月間くらいヨーロッパで絵を描いてきたらしい。
「日本人はもっと海外に出るべきだ」とかっこいい話が多い。
川端画学校のこと、絵が売れるようになったきっかけは城ケ島でひらめいたとか。
今日も一つ素晴らしいものを発見したという。
私は何も発見できなかった。

その後も先生は塾生、たぶろう会会員を連れて良くスケッチ会を企画した。
二日間のスケッチでスケッチ帳2冊が必要だった。それでも足りず裏まで描いた。
先生のスケッチスタイルは現地に着くとすぐスケッチをする。
前後左右4枚のスケッチを描けという。
スケッチスピードは画塾でのクロッキー勉強が大いに役立っている。
5分間に2枚のクロッキーを描くよう指導されていた。
私は真面目に言われる通り必死に取り組んだ。
先輩の画塾生は笑いながら半分は裸体を見て楽しむんだよと言う。
当時は楽しめる余裕もなかったが若い美人のモデルさんはいなかった。
ガリガリかでっぷり太ったオバチャンだった。先生はその方が勉強になるとハッパをかけた。
でも意欲は低下する。

その後塾生もどんどん増えて、夏には展覧会をすることになった。
第1回たぶろう展です。
“たぶろう”の名前は先生が朝日新聞社に在籍されていた頃作られていた美術会の名前で、当時テレビの人気番組「わたしの秘密」で活躍されていた渡辺紳一郎先生が名づけ親とのこと。
私達は、“たべろう会”とか今日は“しゃべろう会”にしょう等ともじって使っていましたが、れっきとしたフランス語の“Tableau”から取っているのです。
“完成された作品”の意味だと先生の説明だった。

第1回たぶろう展は1965年7月28日〜31日まで横浜東電サービスセンータギャラリーで開いた。
展覧会の運営は右も左もわからない塾生を相手に並木先生と奥様は大変な苦労をされたと思う。
たぶろう会の発足はそれからしばらくして、1966年正月のこと、人体クロッキー勉強の後の新年会席上で先生から話があり、2月27日第1回の総会をおこなった。
記録には参加者23名、会員数48名とある。その時の名簿で残っているのは私だけとなった。

ベコの父つぁんのこと

(たぶろう会35周年記念誌から)


文;たぶろう美術協会 春名康夫

もうすでに20年の昔になりますが、
2年余りの中国滞在の仕事を終えて、久しぶりに日本に戻って来た時、
札幌で並木会長の展覧会がありました。
久しく展覧会に飢えていた私は並木先生に同行して札幌を訪れた。
ベコの父つぁんに出会ったのはその時が最初だったと思います。
実直そうな、北国北海道の土に染まった年輩の方でした。

それから上野のたぶろう展へ出品され、上京されるたびに親しくお会いしました。
東京は不案内で苦労されている様子でしたので、私の家に泊って頂くことにしました。
その後、毎年のたぶろう展は私の家に滞在されるようになった。

ベコの父つぁんの命名は並木先生である。
本名は藤井豊四郎さんで、藤井紅允の名で出品されていました。
北海道は妹背牛町の農家の方で、ベコの父つぁんの名前のとおり、
いつも牛を題材に出品された。
動きの豊かな、力強い牛の群れが描かれていた。
私も小さい頃から牛と共に生活の農家の出ですので、
牛の絵を描いて、たぶろう展へ出品したこともあります。
ベコの父つぁんも牛が本当に好きなようでした。
ベコの父つぁんの目を通して見る牛達は、みんな友達であり、
我が子のような愛情を注がれているのが分かります。
絵の前に立っていると大きな世界を感じさせてくれました。

その後、ベコの父つぁんは体調を崩され、
たぶろう展を休まれる事が多くなりました。
心配で札幌出張の折り、
妹背牛町まで藤井さんを訪ねました。

藤井さんは幸い快復されており、久しぶりの再開で話しは尽きず、
一晩泊めていただくことになりました。
近くにお住まいの息子さん達も集まって、ごちそうになりました。

その後も再び体調がすぐれないのか、たぶろう展への出品はありませんでした。
しばらくしてから、息子さんからの訃報を受け取りましたが、
たぶろう会にすっぽりと大きな穴があいたような気持ちでした。
でも、ベコの父つぁんの絵は妹背牛町で保存され、
今も町の人達に愛されているようです。



岸田劉生のお孫さん

岸田劉生先生の有名な「麗子像」はよくご存知と思います。
私は麗子さんにお会いしたことはありませんが、並木会長は麗子さんと親しくされていたそうです。
そんな関係である時、並木先生に紹介されて岸田夏子さんの個展に行きました。
夏子さんは麗子さんのお嬢様です。
ということは、岸田劉生先生のお孫さんになります。
夏子さんは芸大で学ばれ、林武先生に師事されて絵の道に進まれていました。

事前に並木先生に聞いておりましたが、夏子さんにお会いしてびっくりしたのは、あの「麗子像」にそっくりなのです。
麗子さんのお子さんですから当然のことなのですが、並木先生は麗子さんよりも夏子さんの方が「麗子像」にそっくりだとおっしゃっています。
その後、岸田劉生先生の画集等を求めて、その感想をお送りしたりしました。
おそらく、本の内容の受け売りだったと思いますが。

たぶろう展の初期のころは、里見勝蔵先生をはじめ、武者小路実篤先生等ご招待で出品して頂いていました。
岸田夏子さんもたぶろう展に出品されました。
そんなつながりで、夏子さんのご主人が越後中里でスキーロッジを経営されていると聞き、たぶろうのスケッチ旅行で利用させて頂いたりしました。

最近はあまりお会いする機会はないのですが、ご活躍されているようで、テレビで桜の花に取り組んでいる姿を拝見しました。
岸田劉生先生は残念なことに、若くして亡くなられましたが、お孫さんの夏子さんに引き継がれて、生き続けておられるような気がします。
また、たぶろうにお招きしたい画家のお一人です。


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